旧作レビュー第5回「私は未来に生きるのが好き。実際、未来に生きている」/ラウル・ルイス『ロック公国/ジャゾンⅢ世』

『ロック公国/ジャゾンⅢ世』





<作品データ>
原題:Régime sans pain
制作年:1985年
制作国:フランス
アスペクト比:(スタンダードサイズVHSで鑑賞。オリジナルは不明)
カラー・白黒:カラー


<スタッフ>
監督:ラウル・ルイス
脚本:ラウル・ルイス
音楽:ピーター・ミラー
撮影:アカシオ・デ・アルメイダ


<キャスト>
アンヌ・アルヴァロ
オリヴィエ・アンジェル
ジェラール・メモーヌ


<総評>
ラウル・ルイスという作家の名前を聞くと、代表作はどの作品かを考えてしまう。
チリで生まれたその作家は、南米諸国のみならず、フランスやポルトガル、さらにはアメリカでも作品を制作してきたのだから、一見すると国際派の監督のようにも思えてしまう。もっとも彼のフィルモグラフィーを見てみると、その作品数の多さに驚くことであろう。短編映画『ラ・マレータ』でデビューしたのが1963年。それから2011年に亡くなるまで、(遺作『向かいにある夜』は2012年制作扱いになっているが)50年に満たない年月の中で、彼は120本にも及ぶ作品を制作しているのである。しかも長短編問わず、映画からテレビドラマ、テレビ映画はもちろんのこと、ドキュメタリーまで幅広く作り出す彼の才能は、底知れないものがある。
とくに、晩年に制作され、日本でも公開された『ミステリーズ運命のリスボン』に至っては、現代の人気俳優を結集させた4時間を超す超大作になっているのだから、これが亡くなる前年の映画だとは到底思えないのである。

85年に制作した『ロック公国/ジャゾンⅢ世』が初めて彼が日本で紹介された作品となる。それまでデビューから20年以上にわたり、日本には彼の作品は紹介されることがなく、その後2000年に公開した『見出された時 「失われた時を求めて」より』までまた15年の月日を要することになった。その後はDVDスルーとなったアメリカで制作された『悪夢の破片』、日本でもカルト人気を博した『クリムト』と、前述の『ミステリーズ』。実質的にロードショー公開された作品は120本の中の5%にも満たないのである。
それでも、彼が亡くなった翌年に、アンスティチュ・フランセで行われた特集上映では、遺作を含めて10本近い作品が紹介されることになったのである。もちろんのこと、どの作品もその機会以降はお目にかかることが無い。それゆえ、カルト監督として語られることが多いラウル・ルイスであるが、私見では彼はアラン・レネやルイス・ブニュエルと並ぶ、政治性とファンタジー性をシュールレアリズムに則って具現化することのできる娯楽作家であると思っている。


その、彼が日本で初めて紹介された『ロック公国/ジャゾンⅢ世』もまた、特異なシュールさを序盤から繰り広げるのである。
舞台となるのは82年5月のグルノーブル。車椅子に乗った主人公アルエットは、雨の降る街の中で、国王ジャゾンⅢ世の姿を目撃する。それからしばらくして、ジャゾンⅢ世は、彼を育てたピー博士によって記憶を消され、王位から退くこととなる。しかしながら、アルエットは、ジャゾンを再び王位に就かせるため、あらゆる手段を用いていく。という、プロットだけでは極めて単純なのであるが、そうさせないのがラウル・ルイスの世界なのである。
まず、そもそも特異さを頂点まで押し上げてしまうのが、冒頭のアルエットの語るテキストである。82年の春に起きた出来事を回想するようで、それが未来であるとも合わせてナレーションするのである。しかし、さらにダメ押しをするようにそれが過去であるとも付け加える。もっとも、これが85年に作られている映画だけに、3年前を回顧するわけなのだから、その時点では何の違和感もないのだけれど、「それは82年の5月に起きた、未来の出来事だ」という一文だけで観客を迷宮世界へと誘うのである。近未来的な出来事を捉えたSF要素を介在させながら、回顧するという複雑な作りを拒絶してしまえば、ルイスの映画は観ることができないであろう。

もちろんのこと、観客はどういう経緯で王位が選ばれるのか、どういう経緯でジャゾンが王位を目指そうとするのか、ほとんど説明を受けず、ただ映し出される映像から何となく想像を積み重ねていかなければならない。もっぱら、この作品と同じ年に彼が作り出した『アルマ橋で目覚めた男』や『宝島』よりも複雑怪奇な作品であるといって過言ではないであろう。
手術室のようなところから、突然始まるフェンシング。「ロック公国」という名前でありながら、物語の半分をすぎてようやく流れ始めるロックの音色。終始画面の半分近くに闇が落ちたように薄暗く、観客を取り残していくことに抵抗を感じることがない。

しかしながら、終盤に至るにつれ、映像としての見せ場は増えていくのは、キャメラを務めたアカシオ・デ・アルメイダの腕の上手さであろうか。もちろん序盤から挿入される情景のショットは美しく、街のルックも退廃的な近未来感を存分に引き出した色合いになっているのだが、やはりこの映画の見せ場としては、終盤にジャゾンがシーシャを吹かしているディスコのような場所でのパーティーシーンではないだろうか。
無数に張り巡らされたカーテンが、画面の奥行きを眩ませ、そのカーテンに人物の影だけが映り込む。そこで被写体となる人物を追いながら、画面の奥で風にたなびくカーテンの隙間からわずかに人の影が見えたかと思うと、キャメラは一気に真上から俯瞰し、一帯に靄が立ち込めるのである。
寝そべってシーシャを吹かすジャゾンの背後のカーテンに当たる照明が、まるでトリコロールのような配色を浮かべるように見えるあたり、フランス映画としての印象を残そうとしているのではなかろうか。

王位に返り咲くこと最大のチャンスに、別人に衣装を渡してしまったがために、王位を得られなかったジャゾンに訪れるクライマックスの唐突な畳み掛けは実に見事であり、王位継承式からジャゾンが立ち去った次のシーンでは、アルエットと盲目の女性が二人ならんで椅子に座り語り合う。アルエットがⅣ世の事故死を予言すると、どこからともなく事故の音が響き、ジャゾンがⅤ世に選ばれることを予想するとたちまち、別の方向から銃声が聞こえ、ジャゾンが自殺したことを示す。
画として見せることを、最後の最後で放棄し、語らせもせず、音だけで物語の終末を表現するのである。

ラウル・ルイスにおいて、著名なキャストを配さない作品が珍しい印象を受けるのは、どうしても日本に上陸するような作品はそれなりのキャストが配されているがためであろう。そもそも彼の120本の作品のうち、いったい現時点で何本の作品が観ることができるかも定かではないのが勿体無くも思える。
今後ロードショーされることはおそらくないであろうが、彼のレトロスペクティブが開催されて、より多くの彼の作品を目にすることができて初めて、この映画の真意をつかむことができるであろう。

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