【新作レビュー3月号】ジェームズ・マーシュ『博士と彼女のセオリー』



『博士と彼女のセオリー』


<作品データ>
2014年/イギリス/123分/シネスコ

監督:ジェームズ・マーシュ
出演:エディ・レッドメイン、フェリシティ・ジョーンズ、デヴィッド・シューリス




<感想>
素晴らしい史実をありのままに映画化したら、素晴らしい物語が生まれることは必然である。
しかしながら、どこで計算を間違えたのだろうか。致命的とも言えるカット割りの荒さで映画らしさを半減させてしまう。
画面の中央を軸に、時計回りに回る何かを映しこむショットがこの映画のハイライトであるとするなら、画の中で回転する行為は極めて重要なポイントであるだろう。
アメリカ版のポスターでも使われた、二人の主人公が手を繋ぎながら回転するショットで、突然足元にキャメラが切り替わった瞬間、何だかとてつもない哀しみを感じた。
冒頭の車椅子で弧を描くように回転する俯瞰ショットから、自転車の車輪へのフェード。コーヒーがかき回され、螺旋階段が画面の奥へと伸びていくのであれば、どうして車椅子の車輪をもっと見せようとしないのであろうか。

あまりにも淡々と流れるその史実は、幸福なようで、決して幸せなものではない。
難病に侵された天才と、それを支える一人の女性の間に、なんとも癪にさわる男女が介入してくるのは、史実であるゆえ仕方がないとは判っていても、妙にやるせない。
私的な美しさを蓄えたはずの言葉の一文字一文字が、序盤にある程度輝きながらも、やがて所作に負けていき、所作もやがて魅力を失っていく。完全に史実に映画が負けた瞬間である。

ジェームズ・マーシュという作家の名前は、聞いたことはあったが、これまで意識したことはなかった。ヤン・シュヴァンクマイエルを写したドキュメンタリー映画でデビューをした彼は、劇映画のフィールドとドキュメンタリー映画のフィールドを行ったり来たりし、高い評価を得た。彼はこの映画でひとつの大いなる失敗と、大いなる成功をそれぞれ生み出したのではなかろうか。
失敗に当たるのは、史実に負けたことに他ならない。偉大すぎる史実を、劇映画として掌握するだけの手腕に届いていなかったか、もしくは素晴らしすぎる二人の主人公に甘えてしまっているのではなかろうか。
そう、この映画における大いなる成功は、観客の感情を揺さぶる驚異的な芝居を見せる二人の若い英国俳優を惜しみなく輝かせたことである。
オスカーを手にしたエディ・レッドメインもさることながら、原作の語り手である妻を演じたフェリシティ・ジョーンズも、愛らしさと芯の強さ兼ね備えた理想的な女性像を演じきる。

そしてこの映画を最も魅力的に仕上げた立役者は紛れもなくダナ・コリンズである。
序盤のパーティや舞踏会で画面いっぱいに広がる青々とした画がこの映画のルックを印象付ける。病気を理解し途方にくれる主人公とヒロインが対峙する部屋のシーンでの、目を見張るような赤。
ほぼデジタルで撮られる昨今の映画界でありながら、この映画では回想シーンでは16ミリフィルムを用いている。そのぺたっとした質感に、何ら違和感を感じさせない全体の色彩を構築したコリンズの功績は讃えられて然るべきである。

今年のアカデミー賞は、近年では最も少ない8作品が頂点を競った。この映画もそのうちの一本に入ったわけだが、日本で同日公開となった『イミテーション・ゲーム』、そして来月公開する『セッション』もまた、ダナ・コリンズによるカラコレが行われているのである。
デジタルカメラで高彩度の画を撮ることができる昨今、どの映画も同じようなルックをしてしまっていては仕方があるまい。その点で、彼のような人材の力が活かされているこの映画は、評価されるべきであろう。


映画的な演出を排してしまったこの映画で、とくに気にかかったのが終盤の教会のシーンでフェリシティ・ジョーンズ演じるヒロインが教会を出ようとした瞬間に流れるピアノのためらいのなさ、そして主人公とヒロインが文字の並んだプレートで言葉を交わそうとするシーンで、プラスチックの板に中途半端に主人公の顔が映るといった点である。どれもタイミングや、画の力を信じきれていない。
一方で、舞踏会の後の橋のシーンでは、俯瞰で引いていくキャメラが二人を捉えているさらに下で、水の上を一艘の船が流れていくのだから、そこまでは映画らしさを期待できるものがあった。
それでも、最後の最後で総てをまとめあげるかのような大団円の演出は見事であったといえよう。あれを見せられてしまえば、この映画は未来への一方的なベクトルを持った「若々しさ」があるという言葉で満足のいくように片付けることができるのではないだろうか。




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