【新作レビュー2月号】アラン・レネ『愛して飲んで歌って』



『愛して飲んで歌って』


<作品データ>
2014年/フランス/108分/シネスコ

監督:アラン・レネ
出演:サビーヌ・アゼマ、イポリット・ジラルド、カロリーヌ・シオル

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<感想>
ヒッチコックの『レベッカ』に、〝レベッカ〟が登場しないのは紛れもなく作為である。どことなく〝レベッカ〟の影を匂わせることにサスペンスを生み出してはいるものの、観客はある程度のところで、その〝レベッカ〟とスクリーン上で邂逅することはないのだと悟ってしまうであろう。
対してアラン・レネの『愛して飲んで歌って』では〝ジョルジュ〟という男の名前が頻繁に登場する。存在を匂わすのではなく、むしろ登場人物たちは彼の話しかしない。ともなれば、必然的に〝ジョルジュ〟は現れないことなど判りきっているはずなのに、どういうわけかスクリーンに現れるはずのない〝ジョルジュ〟が現れる瞬間を期待してしまうのだ。

アラン・レネという存在を長い間我々は掌握することができなかった。ドキュメンタリー作家として出現し、初期の哲学的な数式を羅列させる彼流の芸術映画は、娯楽とは全くの対極にいたのだから。アゼマという生涯のミューズを得た彼は一転して、娯楽映画のパッケージを追求するようになった。それら総ての終点が、この『愛して飲んで歌って』なのである。

アラン・エイクボーンの戯曲を脚色した本作は、一貫して映画に与えられてきたあらゆる自由を制限している。
登場人物は三組の夫婦。場面はそれぞれの家の庭先。それに加えて〝ジョルジュ〟の住む家の庭先と、室内のシーンは二箇所のみ。オープニングとエンディングを加えてもわずか9箇所の場面しか存在しないこの映画は、一見すると舞台をカメラで押さえただけの閉塞的なパッケージにも思える。
しかしながら、途中の切り替えにイラストを用い、また個人個人のクローズアップになると背景を変えるという荒技を駆使することによって、その閉塞感を帳消しにするどころか、我々観客を一瞬にして異空間へと突き放していくのである。
これら庭先での会話という舞台のような空間設計は、レネ自身の1986年の作品『メロ』の序盤30分を想起させるものがあるが、その見せ方に関してだけ言えば、明らかに「映画らしさ」が備わっているのである。

もっとも、レネの作品は一貫して開放的なものなどなかった。『夜と霧』はアウシュヴィッツで、『世界の総ての記憶』は国立図書館で、『去年マリエンバートで』は城の中と外だけであったりと。人間の記憶から歴史までを遡る広範囲の中で繰り広げられる物語を、狭い範囲に凝縮して単純な物語で流すことによって、「複雑である」というレッテルを貼られてしまっているわけである。よっぽど、大量の人間がどうでもいい物語を幾つも積み上げていく物語の方がよほど複雑で、混沌とした映画になってしまうのである。


「アラン・レネ=難しい」という数式は、もはや作用することはない。悲しいことにこれから先新たに彼の作品を観ることはできないのだけれども、これはこれまでの作品へ遡及して通用するはずだ。たとえ『去年マリエンバートで』でも『二十四時間の情事』でも、物事を単純に捉え、映画に還元することができる作家の生み出したものを、無理矢理混沌化した頭で観る必要はないのである。映画が終わってから、そこに詰め込まれていたものを自分の中でじっくり解いていけばいいだけであって、90分間の間で紐解く必要はないのである。
ひとつ言えることは、この最後の映画を目の当たりにして判ったことは、「アラン・レネ=ファンタジー作家」であるということである。



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