【新作映画レビュー】『グレート・ビューティー/追憶のローマ』

『グレート・ビューティー/追憶のローマ』
(2013/イタリア・フランス合作)





監督:パオロ・ソレンティーノ
出演:トニ・セルヴィッロ、カルロ・ヴェルドーネ、サブリナ・フェリッリ



ついにイタリアの至宝が花開いた。
思い返してみれば、イタリア映画で40年代に興ったネオ・レアリズモを契機として、フランスでヌーヴェルヴァーグが興り、それがヨーロッパ中に波及したと考えると、今でもヨーロッパ映画の中心に立つべきはイタリア映画であるのかもしれない。
それを証明するように、映画界の頂点であるアメリカ・アカデミー賞の外国語映画賞では、ノミネート数こそフランスに敗れはするものの、受賞数ではイタリアがフランスを上回っているのだ。
日本国内においても『ニュー・シネマ・パラダイス』や『ライフ・イズ・ビューティフル』などのヒット作が登場したのは、もうだいぶ前のことで、最近はすっかり影を潜めてしまっている気がする。
しかし、『グレート・ビューティー/追憶のローマ』を観るとたちまち、頭の中に最も輝いていた時代のイタリア映画が蘇るのである。しかしそれはヴィスコンティではない。ロッセリーニでもなければ、もちろんフルチであるはずもなく、紛れもなく、フェデリコ・フェリーニであり、フェリーニであって、フェリーニであった。


日本人観光客がパオラの泉で、突然の死を迎えるオープニングシーンから、蠢き回るルカ・ビガッツィのキャメラに一度目を奪われたら、そこから先の130分はもう、スクリーンに映るローマにいるものと思って良い。
突然現れる絢爛なパーティーシーンから、タイトルインを迎えると、静寂がふわりと画面いっぱいを包み込むのである。その瞬間に、これから始まる物語は、トニ・セルヴィッロ演じる主人公の、美しいはずの記憶の空虚さと、空虚なはずの現在の人生の美しさが交互に攻め立ててくるものだと気付く。

一作のヒットを飛ばし、人気作家として名声を得るジャップ・ガンバルデッラ。日夜パーティーに明け暮れた没落貴族が65才の誕生日を迎えるとともに、初恋の人の死を聞かされ、人生を見つめ直すのである。
イタリア映画で、没落貴族と聞くとどうしたってヴィスコンティの『山猫』を思い出してしまう。あの劇中で登場する、「現状維持を望むなら、変化すること」という問いかけを体現するかのように、この映画の主人公は変化を心に思い浮かべながらも、変えられないジレンマに陥る。その一連の流れを、あらゆる魅力的な挿話によって構成し、徐々に訪れる変化を観客に感じさせる。それはひたすら悲壮感に陥れられた老人の姿ではなく、悲壮感と空虚さに苛まれながらも、過去の経験を踏まえて再成長していく男の姿に他ならない。
中でも興味深いのは、主人公が現在の姿のまま海を泳ぎ、海岸に若き日の回想を浮かべる。船が近付いてきて、主人公が海中に潜り、再び水面に顔を出すとたちまちに、若き日の彼にタイムスリップする一連のショットには心打たれる。
軟派な男の回想録でもありながら、下世話なラブシーンに逃げない点も実に好ましい。没落しておきながら、貴族らしさを維持し続ける品の良さが、この映画の最大の魅力であろう。そこでやはり、この映画はフェリーニなのだと気付かされる。
女性を契機に動く男のドラマと、美しいローマの風景。たとえば『8 1/2』や『甘い人生』で描かれていたことが、半世紀経っても変わらないイタリアの映画の存在感として確立されているのである。美しい。

「美」というのは言葉では表現できない。もっとも、視覚的にそれを描き出すことも容易ではない。だが、それを難なくやってのけたこの映画は、もはや完璧としか言いようがない。
最大の美が訪れる、ラストの100歳を超えた修道女の挿話は圧巻である。あのバルコニーでのシーンを観たら、これは今までのあらゆる映画で描かれてきたバルコニーのシーンを超越するほどの幽玄さに溢れており、エンドクレジットで観ることができる静まり返ったローマの街の情景で、やっとこのスクリーンから離れて現実に返る心の準備ができる。

長いこと佳作をちらほらと生み出しながら、低迷を迎えていたイタリア映画界において、実に15年ぶりぐらいであろうか、世界に堂々と送り出せる歴史的快作を目の当たりにした。



0 件のコメント:

コメントを投稿