【新作レビュー】『ある過去の行方』アスガー・ファルハディ/イラン映画界を担う才能が創り出した、近年稀にみる洗練された形の“フランス映画”


『ある過去の行方』
(2013/フランス・イタリア合作)

監督:アスガー・ファルハディ
出演:ベレニス・ベジョ、アリ・モッサファ、タハール・ラヒム


カンヌ国際映画祭主演女優賞、エキュメニカル審査員賞受賞
第86回アカデミー賞外国語映画賞イラン代表作品



観客に映画的余韻を与えるために、ラストに静かな「間」を用いて、妙に不安な感情にさせる方法がある。僕はそれを「喪失」と呼んでいるのだが、これを最も上手く扱った作家は間違いなくフランスのロベール・ブレッソンである。
『たぶん悪魔が』のラストシーンで画面奥に走り去る主人公の姿を映して、突如として映画が終わると、観客はそれまで映画の世界に入り込んでいたつもりになっていただけであって、いつの間にか自分をスクリーンの中に置き去りにして映画を捕まえることができなかったことに気が付く。
いつの間にか、こういうスタイルの作品は少なくなってきた。ヨーロッパのアート作品でさえ、アメリカの娯楽映画同様にある一定のエンディングを設けて、綺麗に物語をまとめあげて観客を出口まで優しくエスコートしているものばかりだ。
今現在の世界の映画界で、「喪失」を生み出すことに長けている作家は三人いる。タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン、トルコのレイス・チェリッキ、そしてイランのアスガー・ファルハディ。映画急進国であるアジアの文化圏から突如として現れたこの三つの才能だけが、かつてのフランス映画を思わせる「喪失」に溢れた映画を作ることができる。

そのアスガー・ファルハディがフランスに渡り作り出した物語は、序盤から空港の硝子を隔てた二人の「観客には聞こえない」会話から始まる。フランス人女性との離婚手続きのために巴里に帰ってきたイラン人男性、植物状態になった妻を持つフランス人の夫といった二組の男女の物語をいつにも増して巧みな脚本で重ね合わせている。
ファルハディが『火祭り』『別離』といった過去の作品で繰り返してきているお馴染みのスタイルである多面的視点の重なり合いは、世界に渡っても作家としてのビジョンが決してぶれることは無く、自身を貫き通すプライドを感じることが出来る。同じイランから先に世界に羽ばたいたアッバス・キアロスタミにも言えることだが、とくに作家によって描く作品の形が定着しているイラン映画界ならではのことなのであろうか。

ファルハディの映画の特徴は、「現代テヘランの町」を活写し、そこに生きる人々の「世界共通の一般的な生活」を支配する「イスラム教への信仰心」を、「多くの登場人物の視点」から「莫大な台詞の応酬」で描くのである。
故に今回の作品では舞台を巴里に移したので、世界共通の生活に拘る必要がなくなる。そして登場人物のほとんどがフランス人なので、生活様式の中にイスラム教による支配はほとんど描かれることなくなる。残るは多面的な視点と台詞量なのであるが、こういうスタイルを取り入れる作家は数多くいる。しかし、不思議とこの映画は誰がどう観たってアスガー・ファルハディの映画だと一目で判ることができるのだ。

その理由になるのが、他の作家には真似することの出来ないふたつの異様なマジックなのである。
ひとつはメインプロットになっている「植物状態の女性に何が起きたのか」を探って行く中で、一切過去に回想を飛ばすことをしないどころか、その女性の姿がいつまでも映し出されない、まるでヒッチコックが『レベッカ』で生み出した、「対象不在のサスペンス」である。ファルハディは世界的に名前が知られるきっかけになった『彼女が消えた浜辺』でこのサスペンス構築を見事に成功させた実績があり、今回も再びそれに挑んでいるのだ。
そして、舞台も撮影も巴里であるはずなのに、これまで何十年と映画の中で我々が観てきたあまりにも有名な巴里の町の姿が映し出されないことである。これは従来のファルハディ作品が、テヘランの町どころかイランという国に対する世界のイメージを覆す、着眼点の転換をスクリーンに焼き付けることに、国を渡っても成功させた今回は映画史的な偉業である。

そのふたつのマジックと、ファルハディ自身が持つポテンシャルの高さによって辿り着くラストシーンで、初めてこれが紛れもなくフランス映画に仕上がっていると気が付くであろう。握られた手のショットには、ブレッソンが与えてきた「喪失」と似た何かを見つけることができる。西アジアからやってきた天才の手によって変身を遂げた、最も洗練されたフランス映画の形に驚愕するに違いない。




4月19日(土)より渋谷文化村ル・シネマ、新宿シネマカリテほかにてロードショー
http://www.thepast-movie.jp

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