【追悼】アラン・レネ(1922.6.3.〜2014.3.1):Arain Resnais R.I.P.

アラン・レネという名前を聞いても、世の中の多くの人がピンと来ないことぐらいは重々承知している。
中高生の頃は映画が好きという話をすると「どの作品が好き?」という質問しか出なかったので、あまり躊躇せずに誰もが知っているような作品を選んでいたが、大学に入るとその質問に加えて「好きな映画監督は?」と訊かれるようになった。そうなると、否が応でも真っ先に名前を思い浮かべるのはアラン・レネだったし、それを答えたところで「誰?」という反応しか受けてこなかった。ゴダールやトリュフォーの名前を見ても知らないような表情を浮かべる人々にとっては、アラン・レネなど到底人生で一度か二度耳にするかしないか程度の人物であろう。

50年代から60年代にかけて、フランスの映画産業が大きく変革を遂げた時期があった。ヌーヴェルヴァーグだ。その根幹にあったカイエ・ドゥ・シネマの中心にいたような所謂右岸派の作家たちは批評をしながら映画を作っていた。その一方で、セーヌ川の対岸に位置するモンマルトル界隈にいたドキュメンタリー畑から出現した作家たちが左岸派と呼ばれていた。
その中にいたのがアラン・レネであり、アニエス・ヴァルダだったりクリス・マルケルだったわけだ。

1922年の6月3日に生まれたアラン・レネは、アラン・ピエール・マリー・ジャン・ジョルジュ・レネは、フランス高等映画学院で映画を学び、短編映画の製作を始める。その当時撮っていた作品の多くは今では観ることができないが、26歳のときに製作した『ヴァン・ゴッホ』でアカデミー賞に輝く。ドキュメンタリー映画という形で、自身の「映画」と言う方法論を見つけたレネは、55年に発表した『夜と霧』で世界的注目を浴びると、日本を舞台に原爆投下後の広島を舞台にした長編劇映画『二十四時間の情事』で日本でも広く知られることになる。
そして代表作である『去年マリエンバートで』など、ヌーベルヴァーグ期の時代に発表した作品は、どことなく、ほかの作家たちの作品とはかけ離れた存在であり、よく言えば複雑で難解な迷宮世界を展開する一方で、多くの人々からは「意味不明」な映画と嫌われている。
たとえば『二十四時間の情事』では、エマニュエル・リヴァが「わたしは広島でそれを見た」と言えば、岡田英次はすぐさま「君は何も見ていない」と否定してかかる。
そういう台詞を中心にあるのか無いのか定かでは無い物語が展開して行くと、観客からしたら何を信じていいのかが不明確になって置いてきぼりを食らってしまうのである。
このような「否定的応答(=ネガティブリターン)」の究極として、やはり『去年マリエンバートで』の存在は外すことはできない。
ジョルジュ・アルベルタッツィがデルフィーヌ・セイリグに対して「去年お会いしましたよね?」と訊ねても、セイリグは決してそれを認めない。そのやり取りを見ているサッシャ・ピトフはひとりだけ答えを知っているかのようにそこに関わってくるのである。その三つの視点を利用して、複雑にプロットを張り巡らせたアラン=ロブ・グリエによる脚本は、黒澤明の『羅生門』を手本にしたと言われており、はっきり言ってしまえば『羅生門』よりも複雑なものになっている。
何故、あの映画が最も複雑な作りになっているかというと、冒頭から美しい美術品に囲まれた城の中をカメラはうごめき、それに併せてぼそぼそと呟くナレーションが入る。白日夢のようなビジョンをそこに露呈させながら、物語は右往左往し、各視点ごとに違うことを明らかにする衣装の差異や立ち位置の異なりはあれど、作り手側が完全に理解させることを拒んだ作りになっているのである。
つまり、いくら解釈を重ねたところで、作り手であるアラン・レネ以外であの映画の本当の答えは知らないのである。だから、ある意味では答えは無いのかもしれないし、製作当時と現在ではその答えが変わってきているかもしれない。ただひとつ、それを知るアラン・レネがつい昨日亡くなってしまったから、もう答えを知ることはできないのである。


同年代に活躍した作家たちが、ヌーヴェルヴァーグの崩壊とともに作風を変えてきたように(例えばゴダールはより政治色の強い作品に走ったように)、アラン・レネは70年代以降は娯楽映画に走るようになった。その矛先は、もちろん大衆であって、それまでの作品は映画と芸術と観念の関係性を見つけ出す旅の始まりに過ぎず、それを通過して行く中で、彼が気付いたのは大衆に向けた芸術である「映画」の真の姿なのであろう。

『薔薇のスタビスキー』や『プロビデンス』のような不可思議な作品は相変わらずではあったが、『アメリカの伯父さん』や『メロ』のように、どこか掴み所の無い世界を展開させる軽調な作品を発表し続け、5時間に及ぶ喜劇『スモーキング/ノースモーキング』や、ポップなラブコメディである『恋するシャンソン』や『巴里の恋愛協奏曲』を発表する。
そして一昨年、自作の過去の出演者を集めたオールスター映画『あなたはまだ何も見ていない』を発表するのだった。
この中で、再び芸術というものの価値を問うレネは、自作のこれまでの作品をすべて満遍なく拾い上げるようなスタイルで、最大の「娯楽映画」を誕生させたのである。
初期の頃を彷彿とさせる現実と幻想の境界を彷徨い続ける観念的な人間の内面と、中期の映画で見せた、それを象徴する激しい色合い。それをすべて娯楽性の強いキャスティングの中に織り交ぜたのである。
それを観たときは、まだまだ新しい波を起こすことのできる力が残っていると思っていた。
正直、ここ数年で多くのフランスを代表する映画作家が亡くなってきた。もちろんトリュフォーやドゥミのように早逝した作家は数多いが、ロメールやシャブロルやマルケルを筆頭にし、ヌーヴェルヴァーグ崩壊後に頭角を表したミレールまで亡くなったのだ。
クリス・マルケルはアラン・レネと同様にドキュメンタリーから出てきた極めて重要な左岸派作家だった。彼が亡くなったとき、次はきっとレネが迎えられる日が近いのではないだろうかと覚悟はしていたが、今回の訃報はあまりにも突然のことだった。

個人的な話ではあるが、僕が人生で最も影響を受けた作品を3本選べと言われたら、キャロル・リードの『第三の男』、深作欣二の『バトル・ロワイアル』と、そこにアラン・レネの『去年マリエンバートで』を挙げる。
大学生のときに、初めて自主映画を撮ることになったとき、僕が目指したのはやはりアラン・レネであった。作家性なんて呼べるものはまったく無かったけれど、映画を通して伝えたいメッセージや伝えたい形を自分本位で選んで、理解されなくても自分の作りたい形に映画を作ろうとしていた。
それから何本か短編を撮っていくうちに、人に見せるものだという理解が徐々に自分の中で出来てきて、過去の路線からは離れて行ったが、それでもそれが自分の描きたいことであると自信を持って描くということ。少なくとも、映画は観念から入っても人に見せ、人を楽しませる、人を虜にするものであるという基本的なことを与えてくれたのは間違いなくアラン・レネだった。
いつか出世して、映画監督になったらヨーロッパに行って100歳近いアラン・レネに自分の映画を観せてやるんだという野望はもう果たせないけれど、今はポータブルのDVDプレーヤーでも持って墓前で観せることだって出来る時代だ。悔しいし、深作が亡くなった2003年の1月12日以来もっとも悲しい訃報だったが、今やるべきことをやるべきなのだと、改めて自分に言い聞かせることしかできない。
とりあえずは、『去年マリエンバートで』を観て、そして年内か来年に日本で公開するだろうレネの遺作を楽しみに待とうではないか。
ご冥福をお祈りいたします。91歳。きっといっぱい良い映画を観れたことでしょう。満足行くまで映画が撮れたでしょうか。本当にありがとうございました。



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