【新作レビュー】『鉄くず拾いの物語』


『鉄くず拾いの物語』
(2013/ボスニア・ヘルツェゴビナ、フランス、スロバキア)



監督:ダニス・タノヴィッチ
出演:ナジフ・ムジチ、セナダ・アリマノヴィッチ




2001年に『ノー・マンズ・ランド』でアカデミー賞外国語映画賞に輝いたダニス・タノヴィッチ監督。その後はアメリカを中心に国際的に活動していた彼だが、発表する作品の評価は伸びず、前作『戦場カメラマン』はコリン・ファレルを主演に迎えても、日本国内ではDVDスルーになってしまう冷遇を受けた。

彼は2008年からボスニア・ヘルツェゴビナで政治活動を行っている。
政治と芸術のバランスを保つことは映画というフィールドにおいては非常に難しく、ある種のプロパガンダ映画として扱われる可能性がある。もっとも、現代においてプロパガンダ映画は評価されづらいものがあるだろう。
まして、「貧富の差」を描いた映画というものは、例えば戦後の日本の人情劇においては数多く描かれて評価を受けてきたわけだが、近年経済的に発展した上で同じ題材を取り上げると、まさに歯が浮くような恥ずかしさを露呈する映画にしかならないきらいがある。それは、先進国で、誰もが富を得る可能性がある社会にいながら、貧しいことに甘える登場人物をまるで英雄のように描く愚かさがあるからであって、そのような「貧しさに甘んじる」映画などというのは、一見に値しないのである。
しかしながら、まだ民主化途上であるボスニアの地で、貧富による家族の厳しい生活をドキュメンタリー調に追った作品には、そのような怠惰に甘んじる描写も、「貧しいが幸せ」などというくだらない幻想をも打ち砕くリアリティのある描写を以って世界に訴えかける。
「何故、貧しいのか」それがまだわからない彼らなのである。
鉄屑を拾って生計を立てる家族は、長年差別を受けてきた民族の家族である。しかし、時代は変わったはずの現在においてもその差別は続いているのであって、彼らにとっては雪の降る冬に生きて行くためには、辺りに捨てられた鉄屑を拾って売りに行くしか術がないのだ。
ボスニア・ヘルツェゴビナという国の基本的な情報を、日本の多くの人は想像し難いであろう。イタリアからアドリア海を挟んだ国が、このような雪の強い極寒の地というイメージは到底抱きづらいであろう。
アドリア海に面するように、ディナル・アルプス山脈が続くこの国は、アドリア海沿岸では西洋海岸性気候で非常に暖かいが、それ以外は日本と同じCf気候にあるから、冬は氷点下を下回ることもしばしばあり、まして山の麓ともなれば雪が多く降るのである。

妊娠中の妻が腹痛を訴え、病院に行くと、流産をしていることが告げられる。しかし、保険証を持たない彼らは、手術を受けるための金を持ち合わせておらず、治療を受けられないまま帰宅することに。
冒頭で車一台を分解した主人公が得る金額は130マルク。手術にかかる費用は900マルクだから、それがかなり高額だとわかる。
どうしてもその費用を工面しなくてはならなくなった彼は、直接それを借りようとはせずに、少しでもの足しになるために鉄くずを拾い続けるのだ。

この映画を観ているときに、ふと10年ほど前のアメリカ映画を思い出した。
ニック・カサヴェテスの『ジョンQ』という作品だ。心臓発作で倒れた息子の手術費用に充てる金がなかった父親は、病院に立てこもり手術を要求する。その中でアン・ヘッシュ演じるドクターが発した台詞に「医療は奉仕ではない」というものがある。
民主化が進み、発展し尽くした国においても医療は奉仕にはなり得ない。たとえば、かなり社会制度が確立された北欧諸国のように、医療が無償化している国であっても、もちろんそれに見合うだけの税金を支払うことが義務になっているのである。
紛争や、飢餓等で急激に医療を必要とされる状況においては国連の介入によって生命を保護するための医療が充てがわれるが、その後はもう自らの国で発展させていくしかないのだ。
結局、主人公は義理の妹から保険証を借りて妻の手術を受けさせる選択をする。
もちろん、これは合法的な行為ではない。それ故に、妻が一命を取り留めた後も、主人公の表情に安堵の笑顔は見られない。それがこの映画の本質であって、家族を守っていかなくてはならない男にとって、貧しさからの脱却は大きな課題なのである。決して、貧しいことは幸せなことではないのだ。だから主人公はまた雪の中を鉄屑を探しに出掛けていくのだ。









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